100年を超す歴史を持つ日本のゴルフ。その歴史を刻んできた名コースを紹介するシリーズの第6回目は、「鳴尾 GC」をご紹介しよう。

六甲山は冬はクローズだから……

「六甲山ゴルフ場は冬はクローズ、それなら……」と、明治37年阪神沿線に横屋コース6ホールを、英国人の「W・B・ロビンソン」が造った.。大正3年12月、鳴尾競馬場跡へ移転を行い「鳴尾ゴルフアソシエーション」を設立。しかし、大正9年ごろに会員が減少し、鳴尾GAは解散、土地は所有者の鈴木商店へ返却された。その跡に同社社員が中心となりメンバー38人の「鳴尾GC(3ホール)」を大正9年の初夏に設立した。 大正13年ごろには、芝グリーンの18ホール・5080ヤード・パー68のコースへ成長した。ところが、土地の所有者である鈴木商店が倒産、立ち退きを求められてしまう。

15万坪の移転先を探し当てる

立ち退きを求められたあと、新たにゴルフ場を作り始めた。設計は「H・C・クレーン」が行い、工事はすべて人力で行われた。着工から11ヶ月後の昭和5年10月12日に開場式を行った

画像: コースを設計したクレーン兄弟

コースを設計したクレーン兄弟

画像: 昭和14年9月ごろまで使われていた浜コース(鳴尾競馬場跡)

昭和14年9月ごろまで使われていた浜コース(鳴尾競馬場跡)

アリソンによって18ホール中16ホールの改造を勧められる

昭和5年、東京GC朝霞コースや廣野GCの新設で来日中だった「C・H・アリソン」が視察に訪れた。翌6年には、4番・10番を除く16ホールの改造を勧めている。鳴尾GC名物の15番パー3のバックティを現在のように道路超えの正面丘に移動したのも、この勧めによるものだった。

画像: 昭和5年ごろの10番ホール

昭和5年ごろの10番ホール

接収からコース復活へ

昭和12年日中戦争が勃発し、昭和19年には1片の紙切れで接収されてしまう。設計のクレーン3兄弟は、敵国人として軟禁されてしまう。その後、日本が敗戦し開放されたクレーン兄弟は、まず「コース復活」を呼びかけた。そして昭和22年に3ホールの復活開場、昭和23年7月に12ホール、9月には15ホールと徐々に開場し、昭和24年8月にようやく18ホールが揃って完全復活した。

画像: 15番ホール 189ヤード パー3:谷超えの打ち上げ。グリーン周りは巨大なバンカーが8つも待ち受けている。

15番ホール 189ヤード パー3:谷超えの打ち上げ。グリーン周りは巨大なバンカーが8つも待ち受けている。

画像: 10番ホール 476ヤード パー4:打ち下ろしといえども476ヤードを2オンするのは至難の業。ちなみに2打目は大きな地溝(ちこう)超えのショット。

10番ホール 476ヤード パー4:打ち下ろしといえども476ヤードを2オンするのは至難の業。ちなみに2打目は大きな地溝(ちこう)超えのショット。

ゴルファーならば知っておきたい、日本のコースの歴史

日本には長い歴史を持つ美しいゴルフコースがたくさんある。ゴルフコースを知ることは、ゴルフの歴史を知ること。そして、まだ見ぬコースに思いを馳せるのも、ゴルフの楽しみのひとつなのだ。

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