大正期、「軽井沢にもゴルフ場を」という声から生まれた別荘地のゴルフ場
明治19年、英国人宣教師のアレキサンダー・C・ショーによってリゾート地「軽井沢」が拓かれる。明治26年、横川〜軽井沢間の碓氷線の開通で別荘開発が盛んになった。そんな中、大正8年から8月ごろより別荘族の間に「軽井沢にもゴルフ場を」という声が上がり「軽井沢ゴルフ倶楽部」の建設が計画される。
用地は野澤組所有の別荘地「離山の麓」「御膳水付近の7万坪余り」を借り、9ホールを計画した。設計は、セントアンドリュース生まれのプロ、トム・ニコルで大正9年10月23日「赤旗をグリーンに立て、白旗をティに立てて」大まかな設計としたと、発起人の田中実が語っている。
大正10年夏に6ホールが完成、翌11年夏には9ホール(3447ヤード・パー36)が完成。フェアウェイは野生の野芝、グリーンは砂を利用したサンドグリーンで全国で7番目のゴルフ場だった(現在は全国で4番目)。
存続が危ぶまれた
会員が増えた「軽井沢ゴルフ倶楽部」は、昭和7年に成沢地区南ヶ丘に18ホールを造って移転を行った。跡地は、地主の野澤組がパブリックの「旧軽井沢コース」として経営を行い、昭和18年、戦況悪化で閉鎖するまで経営された。敗戦後は、米軍第7騎兵師団によって接収され、乗馬訓練や飛行機の滑走訓練に使われた。
戦後、別荘地が分割処分の危機に晒された際、旧軽井沢コースの保存に動いたのが鹿島守之助という人物だった。鹿島の祖父岩蔵は、明治26年の碓氷線建設に携わり、32年ごろから外国人向けの別荘開発に進出した。そんな祖父岩蔵が組長の鹿島建設は、昭和22年に旧軽井沢コースを買収し、昭和24年に出資者100人、資本金100万円の「旧軽井沢ゴルフ倶楽部」を設立した。
改造を経て、現在の「旧軽井沢GC」へ
昭和30年、アウト・インの各6ホール(計12ホール・4090ヤード・パー49)に拡張。その後、平成元年から7年の時間をかけて、米国人設計家「J・M・ポーレット」による改造が行われ、創立70周年記念に3986ヤード・パー48となった。設計したポーレットは「最も誉れ高いコースのひとつ」を念頭にして改造を行ったという。ティに立ったらボールを打つよりも絵を書きたくなるような日本美が広がるコースだ。
ゴルファーならば知っておきたい、日本のコースの歴史
日本には長い歴史を持つ美しいゴルフコースがたくさんある。ゴルフコースを知ることは、ゴルフの歴史を知ること。そして、まだ見ぬコースに思いを馳せるのも、ゴルフの楽しみのひとつなのだ。